uami「旅をして」

アートワーク:智輝

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[聞く気ないクイズ]
言葉がたくさん浮かんでくる時間が来たとしよう。生まれてきた言葉たちは、文字という形でもって、なるべくはやくスクラップ&キャッチしないといけない。そう、すぐに消えていくからさ。私たちは、目の前から消えて欲しくないものに、あれこれと費やすことがある。時間とかお金とか。結局は消えるもの・終わるものであったとしても、費やしたという行為・記憶として、媒体を持たぬ形で捕獲したいのだ。その結果、必要でなければ、費やした行為まるごとなかったことにしても良い。そうすれば、それは悲しいことではなくなると思うから。浮かんでもすぐに消えてしまうようなメロディーは駄作だという。楽曲を聴いた時、メロディや旋律は、先ずわたしの耳に、ドレミファとして聞こえてくる。だがドレミファはすぐに去ってしまう、書き留めないと記憶の果てに逃げていく。聞こえた音は音符ではなく必ずカタカナで書き出す必要がある。ドレミファ=譜起こしが成立しづらい現状を脱却すべく、もっと訓練など頑張りたいとは思ってきたが具体的な対策ができぬまま今に至る。
全て美しい過去に仕立て上げようとしてしまっているのは、なぜなのだろうか?葬式は象徴する。もう死者との意思疎通ができないとわかった時点で、許し合う手段もいがみ合う手段も閉ざされてしまったということになるのだろうか?あの、肉体とは、意識の容器?容器には蓋があり、外界との隔たり、実に、壁を持って居るとおもう。耐圧制限があるとおもう。ゆえにパンクをして漿液が頭の外へほとばしったような快感をわれわれは、ときに感じることがある。
さあ、これらを踏まえて問おう。
あなたたちの肉体って一体なんだとおもいますか。

[メッセージと文筆に縋る]
私は会話が苦手だ。という意識を抱いている時が多い。しかし、自分の言っていることが文面として見える状態が持続するメッセージ機能を使うと、次に並べる言葉がわりと選びやすくなり、会話をしている時よりも、自分の言いたいことのアウトプット精度が高いように感じるときがある。そうでないと感じるときもある。自分がこのようにながながと文章を綴ることができるのは、友人とのダイレクト・メッセージのやりとりや、旅をしたとき発生したイベントや、生活の中でおこった出来事に対し、違う事象との結びつきをさがしてあれこれと思案してしまう癖のおかげでもある。日によっては、意味もなく次から次に湧いてきた言葉を書き留めていたら文章という体たらくだけは完成している(ように見える)だけのときもある。

[スキップ・エキシビジョン1]
一体いつからエンターキーを押したら即改行されちまうようになってしまったのでしょうか。下線を消したり、この変換でいいですという意思決定の証として一旦押しておきたいキーですが、こちらの意向を無視して改行してしまうことが多い。最近の私ですか、正直楽しくて、あまりよく分かったもんじゃないです。外に出ている時と、家の中にいる時では、外界から受ける刺激、迫られる選択の場面の数が必ずしも違うと思うのです。確かに、この家には食料があまりありません。目の前においておくと、全て平らげてしまいたくなるからです。自分のことを、お徳用が適用されない人種だとおもっています。お徳用という言葉は「複数回のお茶会分の量であればこの一袋で事足りる」と自負している言葉だと認識していまして。でもそれは「一袋」には違いないのであって、量がどんなに「お徳用」であれ、食べきってしまう自信があります。ストックがしてみたいです。食べるという行為は好きというか、始めてしまうと、いっとき継続したくなってしまう。あまり美味しくないと感じたり、多いなと思っても、残したらもったいないという言い訳と、開封後早めに召し上がった方がよいという焦燥感があるのと、先述したように、ものを食べる行為を継続したいという思いから、一袋にたくさん入ったような食品を買うことは、なるべく避けるしかないのである。

[車窓]
去年、東京から福岡に新幹線で帰ったことがきっかけで、めっちゃくちゃ新幹線が大好きになってしまった。車窓が見えるのがよかったなあ。5時間なんてあっという間だった。そのあとは、2ヶ月連続で、新幹線に乗って熊本に行った。逃げたくてしょうがない気持ちは瞬発的フットワークに拍車をかける。夜が空に馴染んできたような時間帯、ときおり車内の自分の姿と混ざりながら、夜の街並みが流れていくのをじっと見る。写真を撮ろうとすると、タイミングよくトンネルに制される。昨年の大晦日から、1月2日まで、山口県宇部新川に行くことにした。その2週間前には高松に行ってライブをした。香川=うどん という情報しか掴んでいなかったにも関わらず、ほぼ無知の土地を旅した体験がほんとうに楽しくて、なにがしか到達した感じを覚えてしまった。行ったこともない街に一人で向かうわけなので、憂うべき点として到着・帰宅ルートにおける時間と電車の選択・決定・着座・降車・・・列記すると多いようにも感じる。しかし東京に行くためにジェット機に乗ったって、憂うべき点はたくさんあるのであり、ましてや高度の変わらぬ車窓が目横を「流れる」ことはないわけですよ。いや車窓が見たいとか、列車で窓側の席に絶対に座りたいとか、いままでそんなに強く思ってこなかったし、まあ 今でもそんな、絶対、車窓がみえるようにブラインドを下ろすなよななんて脅すような程はないが、とにかく車窓ってとてもよいなあと思う。ちなみに庇(ひさし)とブラインドは全く違うものを指すようで、前者は屋根とのつながりがなく、独立して窓や玄関に取り付けられている小さな屋根のことだそうです。

[車窓と人間界の共通項について]
電車に乗れば景色が流れるが、実際運ばれて流れているのは自分である。毎日くらしている場所からどんどん離されてきた。車窓は自分に対し「今お前は、確実に逃げてる途中ですよ。よかったなあ。」と言ってくれるのだ。「逃避」を具現化して目の前で実演してくれる車窓!最高!自分が動いているのに、外がうごいているように見える。車窓をみて、いつか、私に「みんな変わっていくね」って言ってきたひとが居たけど、それってあなたが立ち止まっているだけ、いや、立ち止まっていたいだけなんじゃないの?とは思いましたけれども、本当はわかってることをわからないふりで振舞ってしまうのは、 恥ずかしさから来ているわけだし、その恥ずかしさを紛らわそうとして、一度はわかっていたことが、本当にもう一度わからなくなっちゃってることって、ありそうですよね・・。

[スキップ・エキシビジョン2]
Chromeであれば、エンターキーを押してもすぐに改行されない。今架空のデタラメを書き出そうとしたって、それは大半が自分語りになってしまいそうで怖いのである。記録を残すことは、記憶の形を決めてしまうことにつながるのである。体験とは、感想を残すためのものではないと考えている。「こんな体験として残したい」という願望が、ある程度脚色が加わった形で、事実とはかけ離れた記録を作成させようとしてくる。脚色行為は事実に近い形で記録をする際、ただの夾雑物となりかねない。まあ結局のところは、その夾雑物が含まれていようがいまいが、そのことは大体、書いた本人以外にわからないとは思うのだが。純粋に人間の内から湧いてくる表現を、自分の中にある評価基準に準じて形にしていくことは、「美しい」。分かりにくいことを言っていると自覚しているので、敢えて復唱するが、私の思う「美しさ」とは、「純粋に人間の内から湧いてくる表現を、自分の中にある評価基準に準じて形にしていくこと」だと思っている。もちろん我々はすでに数十年生きていて、外界からの刺激や影響を受けていないということがもはやありえない状態で生命活動を続けている真っ只中であろう。触れて来た物、触れて来た時間、触れた時の気持ち、、これらが内包され、それは「個性」として広義的に称されることも多いのではないかと考える。外界からの刺激をいかに取り込み、アウトプットをする。その加工度や質感として、「そのひと」が出ているかどうかで、「傍観者」もとい、「受け手」、もとい、「作品を作品たらしめる主要人物たち」の心は、いとも無理な力をかけることなく動かすことができるのではなかろうか。無理な力というのは、ときに知名度に付随し発生する一種の卑しさのようなものも指していることを認めよう。私は、いつしか車窓を見ると心が整い、音が降ってくるような感じがした。今回の組曲『旅をして』は、そんなに旅に意識を寄せて作ったわけではなく、ピアノと自分の声だけで、もともとの、自分の「真ん中」のような表現をみせることができる気がしたという意志の跡を残そうとして作っている節がある。音源を作っている間には、寒さと清澄さの入り混じる外気から遮断された室内の暖かさや、雪景色や車窓の流れ、少し年季の入った電車のシートや、ぼうっと漏れるような蛍光灯の白色、風に揺れる田園、民家の屋根屋根のならび、煙突、海、暖炉の火のゆらぎをイメージしていたかも。完成した後旅をしていたらバック・グラウンドにこの曲を選んでいることが多くなってきたし、組曲2曲目の「華(はな)」は、なんだか自分で気に入っていて、永遠に口遊んでいることも多いし、ライブでもいっぱい歌っている。作曲をはじめた最初の頃に、眠れるBGMのような曲を作れたら、それは自然に耳馴染むという証拠であり、作曲がうまくいった証でもある、と信じていたことを思い出した。早く今回の組曲のことについて書きたいが、まだ早いだろうという気分でずっと居た。というよりかは、今までに何回か話し始めようかなと考えて書いて居る時に、別の話題にスキップしてしまうことを繰り返して居た、という方が正しい。
もう少し組曲について言及しようかと思う。

[智輝]
サインペンで描かれた人の絵のドローイングをはじめてみた時に、とても惹かれた。予想だにしないところが太い線で描かれていたり、手の大きさ、光を感じない黒々とした大きな瞳から希望という文字はあまり連想しにくいものであった。口元の描かれていない作品も多かった。やはり紙の上で線がたくさん行き交っている光景は美しい。ペン先がどのようなスピードで走っていったのかという想像をすると、とてもたのしい。光っているものはきれいだが、光り輝いているというよりもむしろぼうっと点っているものの明かりがすき。音源を聞いていただいてから、描いてもらった作品のなかには線画や油絵のような色のついたぽってりとしたラインのドローイングがあり、これらが自分の音源の流れている空間で創られたということに感動した。これは、自分で自分の絵をアートワークにすることとは必ずしもわけが違うことであったが、驚くことに、自分のイメージとのずれがまるでなかったというのも正しいし、全て予想だにしなかった作品が出来上がったという感想もまた正しいという部類の調和が起こったことを、大変嬉しく思っている。

[i75xsc3e]
〜離さん主宰。立ち上げは2年前ぐらいになると思うのだが、i75xsc3eから私もなにかローンチしたいと考えていた。漠然とi75xsc3eという物質的に存在しない、場所というもののイメージはもうその立ち上げ当時からあまり見方が変わったというようなこともないのだが、ここに記した。 「有機的であり、砂のような、水のような流動性をもっているが、基本的には一室として在るために、動くことはない。正確には動く性質をもっているが、あえて動かないでいるのである。白い陶磁器のような壁に似たものを有していて、音を発すれば金属的な響きをもち、木のような温かみも内包する、 住所をもたない空間。木枠の半円窓が、誰も覗けないような高さについているだけだが、外が本当に外であるかというのを疑わずにはおれないほどの外っけのない白いばかりの光景。もしくは青々と茂る田園風景、夏の空、蝉の声。電車が通る音や風などを連想することができる」

[郡(こおり)]
群青色に明けてきた、もしくは暮れてきた空。空気は澄んで冷たく、電柱が流れる視界。列車を降りて歩いている日本の田舎、どちらかというと東京よりも北のほうのイメージです。

[華(はな)]
すこしはなやかで流麗なピアノの動き、琴みたいな感じ。ピアノを主役にしようとしていたが、おおらかなメロディーをつけて歌うとぴったり合う感覚があった。ちょっと遠くにかんじるけれど、美しいなと思うひとのことを考えながら汽車にのって車窓を見つめている感じ。

[ゆらぎ]
室内に入り、寒い外気から逃れて、暖炉の炎がゆらいでいるようすを見たときの感想。絨毯や木製のテーブル、階段の手すり、玄関の重い扉。どこかの家に帰ったり、集まる約束をしている建物に来た様子。

[団欒(だんらん)]
ピアノのある暖炉の広間(というかリビングというか、ロビー)になんとなく人が集まっているが、なんとなく2、3人ずつで談笑している感じ。そとはとっても寒くて暗くて多分雪がふっていて、少し積もっている。年末とか年始とか、出会いとかまたね!みたいなお別れの雰囲気の感じ。

[恋と生活]
他人の人生に落としこもうとしても途中から自分の日記になってしまう。最近は、現実とまた別の生活体験を構築するための空き容量まで食いつぶしてしまい余裕が減っているのが原因かもしれない。

ある春の晩 彼からの電話。
畳に舞い落ちた埃が、彼のたばこの灰だったなら。
夢なら夢と言ってほしい。
優しさは心地いいけれど、優しいを成立させるためだけの優しさなんてただの凶器だから仕舞っておいてくれないか。

六月六日。知らないあの子が店で泣いていたから、どうしてなのか想像する。
彼女は仕事を辞めたかった。二度とくるなと叱られて、だけどその日も最後まで頑張ったし、そんなに簡単に辞められるような立場でも、 状況でもないのは彼女がいちばんよく知っている。これからも、家賃だって払わなければいけないし、せっかく買った間接照明も気に入っている。使いかけのお野菜を一体どうしようか、勿体無いでしょう?煮物にちょっとのせるためだけに買ったきぬさやのこと。恋人と喧嘩して電話をきってしまった。まだメッセージは無い。こちらから送ってみよう。1時間考えた内容を送った。ちょっと文量が多過ぎた気がしてきた。待ってみようか。いや寂しい、しんでしまおうか。なんて考えている自分なんかよりも、もっとつらい人たちのこと、気にしなきゃいけないけど、自分はちゃんとつらいのだから、本当は認めたいし、認めて欲しい気持ちもないと言ったら嘘になるし。
彼女は今度から、電話でつい言い過ぎてしまう愚痴を中途半端に切り上げることにした。

八月十三日。晴れ。かんかん照りの夏の午後。好きな映画に出てくるみかん畑や、見渡す限りの田んぼ、遮るものがひとつ・・電線。
広がる海と空の境界が定規で引いたような線になる。
寺にお供え物をした。

九月二十日。休みだったし、雨も降っていなかったので、いいお蕎麦屋さんに行って、ざるそばを一緒に食べて、日本酒を飲んだ。

十一月十一日。ポッキーの日というのを気にし過ぎた、気にしているという行為で大満足してしまったので、その日にポッキーを買うことを忘れていた。

十二月八日。射手座の運勢を読み上げるアナウンサーはこう言った。「恋人の料理が美味し過ぎてその場で跳ねたら、フローリングが凹んでしまう恐れがあるので今夜は控えましょう。特に注意が必要な料理として、回鍋肉を挙げておきますね。」





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